日本語の乱れとしてよく取り上げられるのが「ら抜き言葉」です。
「ら抜き言葉」とは、可能表現の「られる」の「ら」が抜け落ちってしまった表現です。
- 見られる(可能) → 見れる(ら抜き言葉)
- 来られる(可能) → 来れる(ら抜き言葉)
- 着られる(可能) → 着れる(ら抜き言葉)
話し言葉では 「ら抜き言葉」をつい使ってしまう方も多いようです。しかし、本来は「られる」が正しい表現です。ビジネスや文章作成の場では、「ら抜き言葉」は避けるべきでしょう。
今回は、この「ら抜き言葉」について、基礎知識、見分け方、正しい言い換えを例文つきで解説いたします。
目次
「ら抜き言葉」とは:可能表現「られる」の「ら」が抜けたもの
「ら抜き言葉」とは、可能を意味する「られる」の「ら」が抜け落ちてしまった表現です。
例えば、「その服はまだ着られる」の「ら」が抜け落ち、「まだ着れる」というのが「ら抜き言葉」です。
- 着れる(ら抜き言葉)→着られる(正しい表現)
文化庁によると、「ら抜き言葉」は、話し言葉として昭和初期から現れ、戦後に増加したもの、とされています。[注1]
文化庁平成27年度「国語に関する世論調査」の結果によると、「見られた」を使うと答えた人が44.6%なのに対し、「見れた(ら抜き言葉)」を使う人が48.4%と、わずかに上回っています。ら抜き言葉の使用が増えていることがわかります。
ただし、「考えられない」を使う人が88.6%なのに対し、「考えれない(ら抜き言葉)」を使う人は7.8%と、ら抜き言葉があまり使われていない場合もあります。[注2]
いずれにしても、現段階では、ら抜き言葉は誤った表現とされており、新聞や公的文書であえて使われることはありません。文章作成、ビジネスの場では、「ら抜き言葉」の使用はやめておきましょう。
[注1]文化庁/新しい時代に応じた国語施策について/言葉遣いに関すること
[注2]文化庁/平成27 年度「国語に関する世論調査」の結果について[pdf]
「ら抜き言葉」の例:一覧
よくある「ら抜き言葉」を確認しましょう。
【例文:よくある「ら抜き言葉」】
海でクジラを 見れた。(ら抜き言葉) →海でクジラを見られた。(正しい)
9時には家を 出れます。(ら抜き言葉) →9時には家を出られます。(正しい)
渋谷まで 来れますか?(ら抜き言葉) →渋谷まで来られますか?(正しい)
揚げ物は 食べれない。(ら抜き言葉) →揚げ物は食べられない。(正しい)
とても 考えれない。(ら抜き言葉) →とても考えられない。(正しい)
小さくて 着れない。(ら抜き言葉) →小さくて着られない。(正しい)
早朝は起きれない。(ら抜き言葉) →早朝は起きられない。(正しい)
勝手に 決めれない。(ら抜き言葉) →勝手に決められない。(正しい)
「ら抜き言葉」は、話し言葉から発生しました。そのため、普段の会話の中で自然に使われている「ら抜き言葉」も多いのではないでしょうか。
「ら抜き言葉」の3つの見分け方
デジタル大辞泉によると、「られる」には、次の意味があります。
【られる】
- 可能(そうすることができる): 「そこから月が見られる」「その服はまだ着られる」
- 受け身(ほかからそうされる): 「友達に助けられる」「田中に殴られる」
- 自発(自然に…となる): 「冬の気配が感じられる」「昨年が思い出される」
- 尊敬(敬意を表す): 「先生が来られた」「先生が聞かれた」
例えば、同じ「見られる」という言葉でも、次のように複数の意味を持ちます。
【「見られる」の意味】
- この海でイルカを 見られる。 (可能)
- 多くのお客様に 見られる。 (受け身)
- 先生が そちらを 見られた。 (尊敬)
「ら抜き言葉」は、上記のなかの「可能」を意味する「られる」の「ら」が抜けたものです。
可能表現にしたとき「られる」がつく言葉は、「ら抜き言葉」になる可能性があります。反対に、可能表現にしたときに「られる」がつかない言葉は、「ら抜き言葉」になることはありません。
こちらでは「ら抜き言葉」かどうか、3つの見分けをご紹介します。
見分け方1. 勧誘「よう」がつく動詞は可能「られる」がつく
動詞を可能表現にしたときに「られる」がつくかを判断する、とても簡単な方法があります。動詞を勧誘の形「〜しよう」にして判断する方法です。
勧誘の形にして「よう」がつく場合、可能表現では「られる」がつく言葉です。反対に、勧誘の形にして「よう」がつかない場合は、可能表現で「られる」はつきません。
例文で確認してみましょう。
【例文:勧誘の形で「よう」がつく言葉→可能表現では「られる」がつく】
見る→見よう(勧誘) →見られる(可能)
着る→着よう(勧誘) →着られる(可能)
食べる→食べよう(勧誘) →食べられる(可能)
来る→来よう(勧誘) →来られる(可能)
上記のように勧誘の形で「よう」がつく言葉は、可能表現にしたときに「られる」がつきます。可能表現にしたときに「られる」がつく言葉は、「ら」をうっかりつけ忘れると「ら抜き言葉」になってしまうため、注意が必要です。
では、勧誘の形で「よう」がつかない言葉も見てみましょう。
【例文:勧誘の形で「よう」がつかない言葉→可能表現では「られる」がつかない】
書く→書こう(勧誘) →書ける(可能)
買う→買おう(勧誘) →買える(可能)
読む→読もう(勧誘) →読める(可能)
歩く→歩こう(勧誘) →歩ける(可能)
上記は、可能表現にしたときに「られる」はつきません。そのため、「ら抜き言葉」になる心配はないでしょう。
見分け方2. 「ら」を足しても「可能」の意味のままなら「ら抜き言葉」である
「見れる」「着れる」などの言葉が、「ら抜き言葉」であるか知るためには、その言葉に「ら」を足してみましょう。「ら」を足してみても「可能」の意味であるなら、その言葉は「ら抜き言葉」です。
例文で確認してみましょう。
【例文:「ら」を足しても可能の意味を失わないか調べる】
その海でイルカが 見れる。 → その海でイルカが 見られる。(可能の意味)
その服はまだ着れる。 → その服はまだ 着られる。(可能の意味)
毒のないキノコは 食べれる。 → 毒のないキノコは 食べられる。(可能の意味)
中国まで来れる。 → 中国まで 来られる。(可能の意味)
上記の例文は、「ら」を足してみても可能の意味はなくなりません。つまり「見れる」などは「ら抜き言葉」です。正しい表現に直す場合には、「ら」を足しておきましょう。
反対に、「ら」を足すと「可能」の意味を失う言葉もあります。「ら」を足すと「受け身」や「尊敬」の意味に変わるのです。その場合は「ら抜き言葉」ではありません。「ら」を足したら意味が変わってしまうため、可能の意味で使うのであれば、「ら」を足さずに使いましょう。
例文で確認しましょう。
【例文:「ら抜き言葉」でない可能表現】
このナイフはよく切れる。(可能表現)
→ このナイフはよく切られる。(受け身になってしまう)
そのカバンは5,000円で売れる。(可能表現)
→ そのカバンは5,000円で売られる。(受け身になってしまう)
あなたを知れた。(可能表現)
→ あなたを知られた。(→受け身になってしまう)
上記は、もともと「ら抜き言葉」ではないため、「ら」を足すと意味が変わったうえに違和感のある文章になってしまいます。この場合は、「ら」を足さなくても正しい可能表現であるため、そのまま使いましょう。
見分け方3. 未然形に直して判断する
次に、動詞を未然形にして見分ける方法をご紹介いたします。
【ら抜き言葉の見分け方】
- 動詞を未然形にする (「〜ない」をつけるのが未然形:「見え」ないなど)
- 「〜ない」の直前がイ段・エ段の場合は「られる」をつける
- 「〜ない」の直前がイ段・エ段でない場合は、「られる」をつけない
例を挙げます。
【例文:「信じる」の可能表現】
- 「信じる」を未然形「「信じない」にする
- 「ない」の直前が「じ」でイ段のため、「られる」をつけて「信じられる」にする
- →「信じる」の可能表現は「信じられる」
つまり、「信じる」の可能表現は「信じられる」であるため、もしも「信じれる」になっていた場合、それは「ら抜き言葉」なのです。
もう一つ例を挙げてみます。
【例文:「書く」の可能表現】
- 「書く」を未然形「書かない」にする
- 「ない」の直前が「か」でア段のため、「られる」をつけないで「書ける」にする
- →「書く」の可能表現は「書ける」
つまり、「書く」の可能表現は「書ける」であるため、「ら」がつかなくても正しい可能表現です。「書ける」は「ら抜き言葉」ではありません。
「ら抜き言葉」を正しく言い換える
「ら抜き言葉」は可能を表す言葉です。可能の「見れる」を正しく表現するのであれば、「見られる」と、「ら」を入れましょう。
直し方に迷う場合や、「ら」を入れてしっくりこないと感じるなら、「することができる」と言い換える方法もあります。
【例文:「ら抜き言葉」の言い換え】
丘の上から たくさんの星が 見れる。 (ら抜き言葉)
→丘の上から たくさんの星が 見られる。
→丘の上から たくさんの星を 見ることができる。
人は 情熱があるから 生きれる。 (ら抜き言葉)
→人は 情熱があるから 生きられる。
→人は 情熱があるから 生きることができる。
大切なことほど なかなか 決めれない。 (ら抜き言葉)
→大切なことほど なかなか 決められない。
→大切なことほど、なかなか、決めることができない。
ただし、「することができる」はまわりくどい表現です。できることなら避けたい表現であるため、慎重に使いましょう。基本的には、「られる」でシンプルに表現します。あとは、バランスを考えて、どうしても「することができる」のほうがよいと感じるなら、そちらを選択します。
文学作品や歌詞に見られる「ら抜き言葉」
文学作品や曲の歌詞では、「ら抜き言葉」があえて使われることもあります。伝えたい雰囲気、リズム、時代の空気など、そこには「ら抜き言葉」を使う必然性があります。
文法上の誤りだとしても、十分に練られたうえで使用された場合には、誤りが魅力になることもあります。
【例文:文学作品や歌詞に見られる「ら抜き言葉」】
ナニ、あの沢は裾まで下りれるなんてものじゃねえ。
「千曲川のスケッチ」島崎藤村(1912(大正1)年)
おまへだつて、そこから出ては来れまい
「山椒魚」井伏鱒二(1923(大正12)年)
いいか、此処へ二度も三度も、出直して来れるところじゃないんだ
「蟹工船」小林多喜二(1929(昭和4)年)
銀作は一家を離れて見れるやうになってゐた
「二十歳」川端康成(1933(昭和8)年)
共に生きれない日が来たって どうせ愛してしまうと思うんだ
「しるし」Mr.Children
あれから ぼくたちは なにかを信じてこれたかな
「夜空のムコウ」SMAP
「ら抜き言葉」は使わない
言葉は時代とともに変化するもの、とする意見もあります。一方で、新しい日本語の使い方には眉をひそめる方も少なくありません。多くの方に受け入れてもらうなら、現時点では、ら抜き言葉は使わないのが正解でしょう。
文学作品や歌詞の中でら抜き言葉を「あえて」使う場合、そこには必然性があります。どうしてもら抜き言葉でなければならない理由があるのなら、使うのもよいでしょう。
しかし、多くの方にスムーズに情報を伝えることが目的の文章作成であれば、スムーズに読み進めていただけるよう、ら抜き言葉は避けるのが正解です。